歴史年表

年 代 出来事
弥生時代後期   石原で集落が営まれており、集落周辺に墳墓郡が形成されていた。
古墳時代   有力家父長(佐波臣?)現る。
熊見に横穴式墳墓が築かれる。
九日市井元で集落が営まれていた。
鎌倉時代 1,199 三好善四郎義連常陸の国より佐波郷の代官として下佐波の簗瀬に入り佐波姓を名乗り、矢飼ヶ城を築く。又雲石国境の泉山(八幡山)に城を築いた。
1,220 義連没し清連2代目と成り、銅が丸鉱山の開発に当たる。
1,268 清連没し顕連3代目と成り、銅が丸鉱山の開発に当たる。
1,276 顕連没し暉連4代目と成り、登矢ヶ丸城を築く。没後熊見に葬られる。
1、281 顕連、弘安の役で筑前に出征する。
1,302 顕連没し清政5代目と成り、千原八幡宮・酒谷八幡宮を勧請した。
1,328 清政没し顕清6代目と成り、赤穴地内に領地を得て泉山城(八幡)を整備する。
南北朝時代 1,333 顕清、船上山に馳せ付け後醍醐天皇の味方をし、鎌倉幕府倒幕後天皇の護衛をして京都に入る
1,350 顕清、足利尊氏の石見討伐作戦により、高師泰軍と戦い青杉3城の鼓ヶ崎城で自決する。
実連7代目と成る。
1,358 実連、赤穴庄地頭職と成る。
1,379 実連没し幸連8代目と成り、浜原桂根八幡宮・九日市春日神社(現王子神社)を勧請する。熊見の土居に居住する。
室町時代 1,406 幸連没し正連9代目と成り、熊見の土居に居住する。
1,411 正連、甥の赤穴家総領弘行と共に飛騨合戦に参戦する。
1,416 正連没し元連10代目と成り、熊見の土居に居住する(7歳であった)。佐波騒動起こる。
1,449 佐波赤穴合戦が起こり、元連、泉山城に一族と共に立て籠もり赤穴勢と対戦するが大敗を期する。
戦国時代 1,467 秀連、元連の名代として応仁の乱に出陣する(15歳であった)。
1,471 元連没し秀連11代目と成り、熊見の土居に居住する。
1,504 秀連没し誠連12代目と成り、熊見の土居を引き払い滝原の土居に移る。
1,536 誠連没し隆連13代目と成り、滝原の土居に居住する。
1,551 隆連、山口の長門にて戦死、甥の隆秀、家督を次ぎ14代目となる。父興連と共に浜原に唐樋山城(八幡城)を築き、粕渕竜願寺城に居住する。
1,560 隆秀、毛利軍の一員として別府合戦に出陣し尼子軍と戦い大敗する(忍原崩れ)。
安土桃山時代 1,573 恵連、天津神社を再建する。
  隆秀、毛利輝元広島築城に伴い、長男恵連と共に広島城下に居宅を構える。
1,578 隆秀没し恵連15代目と成る
1,598 恵連、備後東城に1万石を領有して移封され、佐波郷は佐波家と関係を失う。
江戸時代 1,601 邑智郡、天領となる(大久保長安、初代石見銀山奉行となる)
1,619 浜田藩創設。銀山御料、6組に分けて統治され、沢谷の6カ村は他の26カ村と共に九日市組みに属する。
1,673 石見銀の京都への差し立て(送付)が、温泉津港からの年数回の海上輸送から、年1回と成り、10月中に尾道までの陸路、それから海上輸送となった。
1,707 都築小三郎、銀山料代官として着任。伝馬場である沢谷6ヶ村、江戸・京大坂への街道筋にあたり、別して往来が繁く村民が困窮を訴えた為、年貢の4分の1を免除する。
1,712 幕府巡検使、銀山料を巡検。沢谷は11月13日巡検その夜は赤名泊まり。
  正徳(徳川家宣・家継時代)の経世家新井白石の政治を表す高札(九日市佐和慧海さん所有)
1,724 窪島作右衛門、銀山料代官として着任。料内を2組とし羽積・大家・九日市を一組とする。
1,726 組を元の6組とした。
1,731 井戸平左衛門、銀山料大森代官として着任。
  石原村・善四郎妻、九日市村・原田屋利利兵衛、大森五百羅漢に羅漢像を寄進。
1,753 天野助次郎の銀山料代官時代、「石見国郡中入用其外取計定書」代官所より発布。郡中入用(銀山料内六組村々が共同して分担する費用)その他を定めたもの。
  *人馬賃銭なども定めてあり、浜原から九日市まで本馬(1駄36貫を運ぶ1匹に付き銭
   87文、九日市から酒谷まで本馬1匹61文など(人足は本馬の半賃)とある。
  *代官所と銀山料6組との仲立ちをする郷宿制度がしかれ、大森町の重立衆6名が拝命
   した。
  *酒谷口御番所並御門の添村(番所・門の維持営繕・改築・火事その他の非常災害の警
   備に当たらせる)に酒谷村他8カ村を付けた。
1,755 邑智町内で最も古い5人組帖(光峠の福間訓治さん所有)
  天命年間の九日市村の田畑は、田圃が22町8反、畑が35町6反有った。
石原村、法光寺の寺請人高が明塚村で5人・野井村で3人有った。
1,811 伊能忠敬、測量の為2月28日沢谷に入る。村内を測量後、本陣の原田屋惣太郎(佐和華谷)宅に立ち寄るが華谷は不在で逢えず、その夜は脇本陣の鍛冶屋良右衛門宅に宿泊。
沢8カ村大森出勤儀定書(村役人の大森代官所への出勤についての入費節減の取り決め書)
1,821 石原村の俳号南亭、俳書「あさりかひ」に入集する。
  片山村の俳号自泥・九日市村の俳号其風、俳書「蓮華つつじ」に入集する。
1,831 九日市村の錦木氏通称岩見屋佐一郎、俳号弧岩、「石見人名録」に「我影はぼたんの中の夕日かな」が掲載される。
1,836 酒谷番所近くに13軒の人家があり、番所の入り口に門が在った。伝馬継立場と目代所が置かれていた。
1,839 石原村で力士岩三崎救いの角力があり関取銀の音・小湊来る。
1,840 石原村で救角力が催される。
1,845 九日市村で山神祭の角力があった。
1.846 石原村で角力があった。
1,851 石原村の田畑の反別が22町4反18歩あり、出来米が196石5斗5升7合あって、山役・6尺給米・御伝馬宿入用・御蔵前入用合わせて年貢が、米92石3斗4升・半銀336匁5分4厘・丁銀29匁4分8厘だった。(石原、多久文書より)
大森町から酒谷・赤名村へ掛けての「御用伝馬継立定」が作られた。
1,853 大森代官屋代増之助の供方の者が、九日市村にて月代(散髪)をして銭32文を請求され代官は、諸国一統24文の処、過分の請求だと言ったそうだ。(「尾氏春秋」より)
1,858 石原村の、江戸(または大坂)廻米は大浦湊より積み出され、目の不自由な人達への給米が続けられ、村に郷倉を持ち、虫送り行事があった。また、惣作地が有り、頭百姓の役料が1人1年25匁で、庄屋給米は村高の一部であった。(石原、多久文書より)
1,861 石原村は、山中谷間にて賑わいのある町場・市場も無く、酒谷口番所の修復入用銀を出しまた大森銀山へ御用木を運送していた。男は農業の他、縄・薪・筵などを作り、女は木綿布を作っていた。また惣作地が多く難儀をしていた。(石原、多久文書より)
1,861 ペリー来航以来、日本海側の警備が強化され、松江藩は銀山料警護の免除を願い出、また浜田藩は長州藩監視という重大な任務を持っている。2藩に頼れない銀山料は、とりあえず酒谷など国境の要地4ヶ所に中間1人と他に若干の警備の者を駐在し、また芸州藩に石東への派兵を要請した。
9月10日、酒谷口番所に、鉄砲7挺が大森陣屋から配られ、合点不行届の者は討ち取るべしとの命令が出たとの噂あり。
9月13・14日、六部体の者10人が、酒谷口番所で取調べを受け、笈の中に鉄砲と刀を隠し持っていた為、2人を大森へ引き立てた。
1,864 大森代官所の申し渡しを受け村方は、「非常用意被仰渡候ニ付村方取締議定書」を定め、非常時何時でも出動できる態勢を作った。
九日市組みの家数は3、315軒在り291人を割り振り、組合村7つを作り、沢谷6カ村へは52人を定めた。
第1次征長令を受け、大森代官所の指令により自衛の体制を整える事に成り、酒谷村異変の節の防人数を沢谷6カ村と河戸村で137人と定める。、
1.865 第2次征長令による献金の命令が出て、九日市組で3,903両3分2朱集まった。10両以上献金した人は、沢谷6カ村では13人居た。また大根漬けの買い上げを酒谷・千原で各1人通達されている。
1,866 長州軍が七月、浜田で勝利したことにより、大森代官所は上下(現広島県上下町)に撤退し銀山料は長州軍の軍政下となり各所で一揆が勃発する。
7月28日、安濃郡鳥井村出起きた一揆は池田・志学を経て粕渕から石原・千原に進み、多久某宅を襲うに当り長州騎兵隊に制せられ鎮定された。
8月18日、出羽の長州軍代官林梅乃丞より、佐和7カ村及び都賀行8カ村の百姓・水呑に呼び出しがあり、浜田へ民政所を置き、何事も取鎮に成るゆえ、徒党がましき事をせぬようにと申渡しがあった。
1,867 長州藩大森本陣より、恵米の下げ渡しが九日市組の村々にあり、沢谷6カ村では合計22石6斗2升7合5勺が、粕渕村にて下げ渡された。
8月、盗賊人・他国人・喧嘩・口論・博打の取り締まり・諸国風聞探索の為、旧銀山領内で10人「御内用手先」が任命され当地内では、酒谷村の孫兵衛が任命された。
明治時代 1,868 長州藩預かりと成り、九日市組32カ村では事あるたびに粕渕村に集まる事と成った為、九日市組で「村方宿割」を定める。また、小原からの各村への飛脚賃も定め、石原村500文・九日市村800文・酒谷村1貫100文等と成った。
9月8日、慶応4年が明治元年と改元された。
せきしゅう さわのごう いわみぎんざんかいどう ここのかいちじゅく
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参考文献:邑智町誌