石州佐波郷 石見銀山街道“九日市宿”
 名称 所在地 種別 概     要 出土品など
石原遺跡 石原 集落跡 沢谷地区では比較的まとまった平地をもつ上石原に所在する比較的規模の大きい遺跡で、昭和48年秋頃、貝谷盈さん(精米所)が自宅の倉庫裏の拡張工事中、石垣を取り崩した時に発見されたもの。遺跡の性格は、出土土器の大半が一般に住居跡から出土するタイプのものであるので、かなり多数の住居が集まった集落の跡と考えられる。普通の生活器具とは考えられない祭具的性格の強いつづみ形器台と呼ばれる器も出土しており、この器は土壙墓と呼ばれる形式の墳墓の供献土器であるから、この石原遺跡に於いても集落の周辺に墳墓郡が形成されていたのではないかと推測される。出土品より弥生時代の後期末以来須恵器VW期の時期にいたる頃の集落跡である。 1、弥生式時の終末期の要素を備えてい
  る壺型広縁部の土器2個
2、古式土師器の中でも比較的古い式に
  属するもの1個
3、古式土師器中葉の要素を備えている
  壺型土器広縁1個
4、須恵器出現寸前の特徴を示している
  土師器終末の土器と見られる高杯部
  片
5、TU期ないしVW期の須恵器と併行
  する土器3個
熊見
横穴群
熊見 横穴 浜原久西との境界の熊見山中腹(多久正行さん宅下手の山)に築造され、早くから存在が知られている。2段に並んで9穴あり、大部分は埋没し詳細は不明だが、下段南側の2穴は家形妻入りの形式に属す。平面形が1辺約2mの不正形な正方形状を呈した比較的大型の横穴で、四壁と天井部との区別が明瞭に認められ、棟線もしっかりと描かれており、粗雑な作りながら一応まとまった形態を備えている。築造年代は出土品より須恵器VW期の時期の末頃と思われ、鉄釘が出土していることより、おそらく遺骸を収めた木棺を安置したものと推察される。 須惠器片が数片と土師器杯一個そして鉄釘片若干がある。須惠器片はいずれも再編でありタイプなどの詳細を知ることができない。
土師器杯については、薄手の丁寧な作りで内部にあんぶんを認める事は出来ないものの、その形態はW期以降の須恵器と併存するものであり、須恵器VW期の時期も末頃のものである。
西原横穴 西の原 横穴
沢谷小学校建設工事の際に発見されたもののようだが、消滅して現存しないのでその形式などについては不明。

遺物として土器類が出土したという言い伝えはあるものの、その所在は不明であり、その内容を知ることが出来ない。
井元遺跡 井元
散布地

井元集落が存在する平地に広がる遺跡で、遺跡も精査されておらず具体的な内容については明らかでないが、周辺の状況から見て余り規模の大きくない集落跡と推測される。集落存続の時期は、出土遺物が小量なために正確なところはわからないが、およそ須恵器VW期の頃と考えられる。

新しい時期の土師器片とW期の須恵器片
保関鈩跡T       保関 製鉄遺跡    
保関鈩跡U      保関 製鉄遺跡    
白泉鈩跡 光峠 製鉄遺跡    
たたら原
 鈩跡
製鉄遺跡    
湧久利原
 鈩跡
湧久利原 製鉄遺跡    
かじや
鈩跡
花の谷 製鉄遺跡    
段上原
鈩跡
花の谷 製鉄遺跡    
花の谷
鈩跡
花の谷 製鉄遺跡    
たたらヶ谷 鈩跡 片山 製鉄遺跡    


遺  跡

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参考文献:邑智町の文化財(邑智町教育委員会発行)