山吹城

山吹城址は、延慶年間に石見銀山を発見した周防の国主大内氏30代義興時代の享禄4年(1531年)、矢瀧城(享禄元年築城)を川本温湯城主小笠原長隆により落とされ銀山を奪われた。その後奪還し、銀山防衛の要のために天文2年(1533年)、清水寺の眼前にそびえる要害山(標高414m)の山頂に築城した山城跡だ。
この城は、銀を産出する仙ノ山に対峠し、銀山支配の拠点であったため、銀山争奪攻防戦の表舞台となり、落城を何度となく繰り返している。弘治2年(1556年)、毛利元就の息子吉川元治が山吹城主刺賀長信を攻め落とし銀山を手中に収める。元禄元年(1558年)尼子方須佐高矢倉城主本城恒光が奪還するも、永禄5年(1562年)本城恒光を諜略(策謀)により自刃させ、再度尼子氏から奪還。大内氏・小笠原氏・尼子氏と繰り返された石見銀山争奪戦もここに集結。1600年の関が原の戦い後に徳川領となった。
龍源寺間歩駐車場近くの登山口(標高200m)より山吹城へ登る。10分余り九十九折の路を登ると曽根道へ。それを過ぎ急坂を上がると視界が開け、温泉津から仁摩方面が見渡せた。下から吹き上げる風がきつく飛ばされそうだった。そこから5分余りで頂上へ。要害山山頂には、階段状に整備された大規模な郭跡(建物を建てるための平坦面)が広がっている。石垣や空掘、登って来る敵めがけて石を落とした竪掘も認められ、何度も落城を繰り返した激しい銀山争奪戦を想像することができる。頂上部の主郭を中心に南北に階段状の郭が有り、主郭下には空堀も有る。北側郭には石垣も残っている。頂上部は広く1反部以上もあり、桜の古木が20本近くある。眺望はすばらしく、温泉津〜邇摩〜日御碕〜三瓶、遠くに中国山脈とぐるりと見渡せ、眼下には大森の町並みが見え、また眼前には仙の山が横たわっている。
北側の郭より急な階段を下りる。全部で612段あるそうだ。10分余り掛かって階段を降りると曾根道へ出て、直に銀山街道鞆ヶ浦道の別れの吉迫口へ着く。緩やかな山道を10分余り下ると、街道左側に石垣が階段状に残っている箇所に着く。毛利氏が『休役所』を置き、大森銀山初代奉行大久保長安が『陣屋」を置いた所。北側登山口(清水寺前標高160m)へ出た。1時間ちょっとの所要時間だ。