〔大森〜荻原〜箱茂の松〕

〔箱茂のお松〜やなしお道〜小原〕
箱茂のお松〜中国自然歩道入り口(約2.0km)
大江高山火山群
 200万年前、噴火した火山が集まり大江高山火山群が形成された。大江高山(808.0m)・山吹城山
(414.0m)・矢瀧城山(634.2m)・矢筈城山(480.0m)・馬路高山(499.4m)・城上山(411.0m
 )などから成りその中に仙ノ山(537.8m)がある。140万年前、仙ノ山火山の活動により発生した300
 ℃と言う高温の温泉水が、割れ目の多い仙の山に貫入し地下に銀鉱床が形成された。
『箱茂のお松』の悲話
 海からも望めたと言う枝張り7間もある通称「箱茂のお松」(大森から2里の大田市・邑智郡境の箱茂谷
 にあり一里塚として植えられたもののようだ)、街道を行きかう人の休憩の目安として親しまれていた。
 ある魚売りが行商から帰る度に、この松の事を『お松が、お松が・・・・』、と話すのでその女房が「お松」
 を隠し女と邪推し、呪いを掛け枯れ死させてしまったとの事。今のは2代目と言う。
力士『嶋ヶ瀧平一郎』

井戸平左衛門
 大森代官所第19代代官。享保16年(1731年)に着任し、あくる17年の享保の大飢饉の時、領民を
 救うため、自らの財産で米を購入したり幕府の許可を得ず米蔵を開放したりし、領民に米を与えた。又
 当時入手困難だったサツマイモを、苦心の末薩摩藩から持ち帰り栽培させ、以後の天明・天保の飢饉
 に銀山領内では餓死者を出さなかったと言われている。平左衛門はその徳により、「芋代官」・「芋殿
 様」と敬慕され、江戸時代末期から明治・大正に掛け山陰各地(米子から山口、又岡山にも)中国地方
 全体では700基余りの頌徳碑が建立され、石見地方各地にも数多く建てられ、美郷町内には23基の
 碑が建てられている。
※米とぎ橋
 この橋の下を流れる川は以前は清流で、袂では近隣の方が米を研ぎながら世間話をする憩いの場で
 あったようだ。又この付近からの三瓶山の眺望は絶景だ。
中国自然歩道
 中国自然歩道は中国地方5県にまたがり総延長は約1900km、昭和58年3月で全ルートが完成した。
 この歩道は、中国地方に残された美しい自然の中を、自分の足でゆっくり歩いて豊かな自然の営みに
 ふれ、また郷土の歴史や文化遺産を訪ねることにより、心身の休養と自然やふるさとへの理解を深め、
 あわせて体力づくりに役立てるためにつくられたもの。歩道のルートは、国立・国定公園、県立自然公園
 や史跡・名勝・天然記念物・由緒ある社寺など、その地方の特色ある場所を通るように結ばれ、急な坂
 道や平坦な道など、変化に富んだ組合せになっており、これらの自然や歴史、文化を四季を通じて探勝
 することができるようになっている。何日もかけて歩いたり、自分の体力や余暇時間にあわせ好きなコー
 スを半日、または1日かけてハイキングするといった楽しみ方もできる。 島根県内には12のコースがあ
 る。

大江高山火山群

箱茂のお松

力士の墓

旧街道

井戸公頌徳碑

頌徳碑案内板

米とぎ橋〜馬場

馬場三叉路

自然歩道入り口
中国自然歩道入り口〜十王堂跡〜七本槙(約2.1km)
やなしお道
 この辺りから湯抱地内までの標高250〜280mあたりの曾根道6km余りと、60mの標高に一気に下
 る1km余りのやなしお坂からなる道。この道は、当地を鎌倉時代から江戸時代まで15代に亘って支配
 した佐和氏7代実連(父の6代顕連は南朝の忠臣として大正5年に正5位を授けられた)の、領地譲り渡
 しの文書(正平9年・1354年)に記載があり、650年前の古い時代から存在し、陰陽を結ぶ重要な道と
 して利用されていたと想像される。平成8年、古くからの情景・歴史的な価値を残す道として、文化庁の
 「歴史の道100選」に指定され、湯抱別れまでの4.5km余りは中国自然歩道としても整備されている
 。「やなしお」の「や」は「八重桜・八百屋・八百八橋」の「や」で多くのという意味、「な」は「の」、「しお」は
 「塩」の意味で、多くの塩を運んだ道か?
 やなしお道沿いは、銀精錬に使用された木炭生産地(御囲村の中の炭方六カ村)であり、本来なら「裏
 白樫」が主の筈だが「こなら」主体の山林となっている。又、街道脇等に見受けられる丸石・礫層は、こ
 の辺りが水上層と呼ばれる地層からなり表面に露出しているため。
※御囲村
 幕府は銀山の経営を円滑に行うため、銀山近隣の32カ村を指定し、銀生産に必要な資材(精錬用の炭
 ・間歩の留木用栗木など)の供給を請け負わせていた。
※炭方六か村
 御囲村のうち銀山との交通の便の良い別府・小松地・惣森・志君・湯抱・そして大田の忍原の六か村を
 指定し、山林面積に応じた炭を供給させていた。その名残か、昭和30年代までは盛んに炭の生産が行
 なわれていた。
※水上層
 別府・小松地・京覧原一帯に分布し、礫・砂・粘土からなる。一帯は200年前は湖沼だったと言われ、隆
 起により地表に現れた。粘土は良質な石州瓦の原料となる。
十王堂跡
 十王とは、冥府に有って亡者の罪業を裁断する十人の王で閻魔大王もその一人。十王堂跡付近は、物
 部神社(大田市川合)と天津神社(美郷町吾郷)・田立神社(美郷町村之郷)を結ぶ道といわれている古
 道との合流点。十王堂は一寸小高いところにあり、道を挟んで茶屋があったようだ。十王堂跡・茶屋跡
 には孟宗竹が繁茂しているが、街道には竹の子1本も見えない。これは「版築工法」と言う工法で道が
 整備されたためだ。
版築工法
 真砂土と粘土を交互に層状に塩(塩水?)を加えてつき固めた工法で、塩は植物の根の侵入を防ぐ効
 果があり、孟宗竹もこの効果により繁茂を免れた。この工法は「やなしお道」以外の尾道道の五反田古
 道(美郷町九日市)、鞆ヶ浦道の吉迫口を降りた坂道(両側に竹が繁茂)でも確認できる。「版築工法」
 は、中国から伝わった工法で城郭や建物の基礎に用いられ、万里の長城もこの工法を使っている。
茶縁原
 この辺りにも茶屋があり、茶屋の縁からつ付いた名前。茶縁原からの三瓶山眺望はすばらしく、茶屋の
 縁台で番茶をすすりながらのひと時、旅の疲れを摂ったものと思われる。
邑智北農道
 平成12年、美郷町別府から美郷町寺谷へ抜ける農道が建設される事となり、「やなしお道」を横断する
 箇所が橋梁となり140mの街道が失われる事になるため、調査が行われた。その結果この街道に「版
 築工法」が用いられている事がわかった。、

十王堂跡付近竹林

十王堂跡

十王堂案内板

茶縁原からの三瓶山

邑智北農道交差橋梁

七本槙別れ

第1休憩所

七本槙別れ〜七本槙

七本槙

七本槙別れからの眺望
七本槙〜湯抱別れ(約2.4km)
この区間には、水留場が2ヶ所・茶屋跡があり鞆ヶ浦道にもある土橋と思われる箇所も確認できる。又
第1の峠(標高270m?)があり、大名石・ぽうぽう坂など面白い逸話の箇所もある。
ぽうぽう坂
 この道を下ると湯抱温泉。湯抱温泉は、昔は一箇所しか湯口が無く、湯治客を泊める宿も小さな木賃
 宿以外民家も無かった。ある夕方、一人の山伏が宿を乞うた。その山伏の恐ろしい顔つき・うす汚い風
 体を怪しんだ亭主は宿泊を拒んだ。それを恨んだ山伏が、坂を登り切ったところでほら貝を「ぽうぽう」
 と吹くと、一箇所しかなかった湯口が何箇所も出来、あたり一面に湯が噴出した。その後、何軒も宿が
 出来その木賃宿は次第に没落の運命をたどって行ったとか・・・。その坂道を現在でも「ぽうぽう坂」と
 呼ぶ。
大名石
 第1峠を登った街道脇山手にあり、その昔大名が休んだ石と伝えられている。この街道を大名が通行
 した記録は無いが、旅人が峠を登ったところで荷物を置いて休んだものと思われる。荷置石と呼ばれる
 石はこの他に数箇所ある。

七本槙〜第1水留場

第1水留場

第2水留場(茶屋跡)

第2水留場〜

第2水留場〜

第2休憩所

第2休憩所〜

第2休憩所〜
ぽうぽう坂入り口
第1土橋?

第1峠(第3休憩所)

大名石(第一峠

第1峠〜湯抱別れ

第1峠〜湯抱別れ

湯抱別れ

湯抱別れ案内板
湯抱別れ〜第4休憩所(約1.1km)
この区間には第2峠(280m?)があり、ここにも土橋と思われる箇所が確認できる。三瓶隠れと言う小
字名が残り、その逆に三瓶山の眺望絶景箇所がある。

湯抱別れ〜

湯抱別れ〜

湯抱別れ〜

湯抱別れ〜

第2峠

第2峠

第2峠〜

第2峠〜

第2土橋?

第2土橋〜

第4休憩所

第4休憩所

第休憩所からの眺望
第4休憩所〜やなしお坂〜やなしお坂登り口(約1.0km)
第4休憩所を過ぎると直ぐ、急に道幅が狭くなる。下方に目をやると大きな石が転がりクレバス?が確認
できる。明治の浜田地震(明治5年3月14日に浜田沖の日本海を震源として起きたマグニチュード7.1の
構造性地震。このとき海底が隆起して出来たのが浜田市国府町の畳が浦)により街道が崩落した現場だ
。道の狭い箇所には石が積まれ、又崩落箇所には旧道が認められ、50m先くらいで合流する。そこを過
ぎると大きな荷置石があり、その先から「やなしお坂」へと差し掛かる。この坂は、標高250m地点から一
気に60m地点に九十九折の坂を1km余り下ると言う余りにも難所のため、この坂を通る荷役には割増
賃金が認められていた事が嘉永7年(1854年)の古文書により確認されている。九十九折が続く途中に
は、墓標と思われる石碑が有り、又「雨避け堂」なども在ったようだ。

クレバス?

道幅狭小

石積

合流点

荷置石

やなしお坂降口

やなしお坂

墓標?

墓標?

九十九折が・・・

九十九折が・・・

やなしお坂も終盤に・・

やっと・・・・

やなしお坂登り口

やなしお坂案内板
〔小原〜浜原〜半駄の峡〜石原
やなしお坂登り口〜才ヶ原〜小原〜四日市

やなしお坂を降り、志君川を渡り才ヶ原に入ると直ぐ、街道脇に馬頭観音がある。町道を700m余り行く
と尻無川渡河地点に到達。小原河原には「わたろう」と言う呼び名の場所がある由。そこが渡河地点か?
小原河原〜轟き坂を経て小原に入る。直ぐに旧本陣本波多野家跡がある。その先のT字路を左に取り、
暫く行くと国道375線と合流する五つ角に出る。五つ角を斜め右に進み、暫く行くと左に路地がある。こ
れが三瓶別れ、円光寺の下を通って三瓶へと向かう道。来た道を真っ直ぐ行くと粕渕駅前の高手に出る。
そのまま進むと国道375号と合流し、早見川渡河地点。明治時代に広島の連隊が三瓶山で演習のため
早見橋を通過中、大砲を早見橋に落としたため責任者が腹を切ったとか・・・。早見橋を渡り久保入り口
三叉路を過ぎると、左手に小さな急坂が見える。この先に四日市別れがある。久保方面・浜原方面への
分岐点だ。四日市に上がってから街道は判然としない。道路建設により中学校下が掘割となり。又中学
校の寮建設・急傾斜工事などで街道が無くなったようだ。降口も3箇所くらい在ったようで、いずれが街道
かわからない。
※轟き坂
 この坂は小原河原から小原に通じる坂道で、町から落ちてくる水路(本波多野家初代が独力で作ったも
 のと言われれているが)傍を通っており、その落ちる音が轟くほど大きいのでで付いた名前だとか・・・・。
 この坂は元は石張りだったが、今はコンクリート舗装され見る影も無い。
※小原鈎町挽木町
 小原の町は直角に曲がる通りが何箇所かある。これは牛馬の暴走・火事にの延焼を防ぐためのようだ。
 鈎は自在鈎の鈎・挽木は臼を挽く時に臼を回すための木。いずれも直角に成っている。飯南町赤名・大
 田市祖式・邑南町市木にも当時の名残が残っている。
※石見国浄土真宗根本精舎西原山浄土寺
 11月の報恩講は「ほんこさん」と呼ばれ、昭和40年代頃までは近在から多数の参拝客があり、参道に
 は多数の露店が並び又がまの油売り・バナナの叩き売りなど大道芸などもあり、大賑わいをしたものだ。
※川止め番所跡
 尻無川河川敷の対岸は浜田藩。銀山領からの銀流出・秘密防衛などのために設けられたもの。
※本林家
 幕末30年位前より、本波多野家に代わり小原の本陣となった。大森に赴任する代官が止宿したほか、
 第2次長州征伐のときは福山藩の本陣となり、当時の藩主が1ヶ月にわたり駐留した。又、小原は江川
 の水運と銀山街道により多くの人の往来があり、桂太郎・伊藤博文など幕末の著名人が多数止宿して
 いる。当時の建物はそのままで「亀遊亭」として旅館業が営まれている。
※四日市
 早見川河口近くの左岸に位置する丘陵上面の平坦部で、集落遺跡が有ったと思われ四日市遺跡として
 美郷町に指定されている。精査されたものではないが、開墾時に多くの遺物が出土したと伝えられてい
 るが現存しない。
※一本松
 四日市から降りた江川河畔に突き出た岩があり、その上に1本の松の大木があった。そこは江川が左
 へと方向変換したところで、深い淵となって居り水がよどんでいる。その為か、何度か飛び込み自殺が
 あったようで、2度とは浮かんで来なかったとか・・・。

才ヶ原入口

馬頭観音

尻無川渡河地点

小原河原案内板

小原河原跡

轟き坂

旧本陣本波多野家跡

本波多野家蔵跡

旧本陣案内板

小原鈎町挽木町

川止め番所跡

幕末の旧本陣本林家

浄土寺

三瓶別れ

三瓶へ・・・・

四日市別れ登板口

四日市別れ

渋谷・浜原方面へ

久保方面へ

四日市

四日市降口
四日市〜浜原〜半駄の峡〜上川戸〜石原
四日市を下りて渋谷川を渡り浜原の町へ。町の右側には何箇所か江川へと通じる小路がある。現在の
堤防が有るところに長い舟着場が在ったようで、江川舟運全盛時代の名残だ。半駄が峡を抜け、沢谷
川沿いを登り、大光寺前辺りから沢谷川を渡り久西側を溯り、石原の大谷谷川出口で沢谷川を渡り石
原へと向かう。増水時は、大光寺前から現在の県道筋を行き、藤川さん宅裏を通る山道を通ったと思わ
れる。このように普段は川を渡る平坦の道、増水時は川を避けた山道。このような代替は沢谷では、九
日市宿の手前の五反田古道の替え道が貝の平の古道、首無しの曽根道が替え道で、川向こうの花の
谷の鼻先にある川筋の道が普段の道。
※妙用寺
 開基は佐和氏7代実連。寺宝の観世音菩薩は行基の作と伝えられている。境内にある桜は、樹齢約5
 00年・樹高30m・胸高周3.3m・根元周4.0mの大木。山桜と江戸彼岸の雑種と見られ、染井吉野と
 は異なるところが多く、妙用寺桜の学名が付いて居り、島根県指定文化財と成っている。中世、江川は
 現在の浜原集落の東側を流れており、今の国道バイパスあたりに舟を繋いでいたと言われ、大水の時
 には妙用寺の桜に舟を繋いだ、との言い伝えがある。
※半駄が峡
 やなしお坂に続く難所。半駄とは、1頭の牛馬が運ぶ荷物(1駄)の半分の事で、荷物を半分にせずには
 通れない程の危険な道と言う意味。又半駄抱えと言う小字があり、幕末の福山藩士の旅日記には半駄
 が崖との記述がある。又粕渕村誌には、本波多野家が開削したので「波多野ガ開」と、記述がある。
※畳岩
 国道375線三日谷橋上流の沢谷川に河床が露出しており、平らな岩盤に筋が入っており、あたかも畳
 が敷いてあるかの如く見えるために付いた名称。その川原近くの剣道美郷飯南線の道路脇山裾には、
 佐和氏5代清正の墓と言われる五輪塔がある。

渋谷の港

浜原下市の町並み

浜原旧本陣付近

港への小路

妙用寺と桜

半駄が峡登り口

崖道が・・・
崖道が・・・
崖道が・・・

この中を・・

眼下には江川

半駄が峡降口

半駄が峡案内板

畳岩

佐和氏五代清正の墓

井戸公頌徳碑

井戸公頌徳碑

左が街道

左へ折れる
石原〜九日市宿〜酒谷口番所〕
沢谷に現存する街道は、石原・九日市・酒谷(市)と途切れ途切れとなっている。生活道として使われてい
るところもあるが、昔のままと思われるところも多く残っている
石原地内
田圃を避けて山寄にあり、大半が生活道として現在も使われている。
石原古道
県道より福田さん宅前
を通る
田んぼの端を通って 綺麗に残ってます 残念ながら舗装です 遠藤さん宅裏
吉岡さん宅裏辺り 登りの頂点付近 舗装と別れます 貝谷さん宅裏辺り かにわ屋前から
法光寺前辺り
牛尾さん宅前から
多久さん宅裏辺り
多久さん宅裏辺り 多久さん宅前から
小野屋付近
千原電子前付近 田辺さん宅裏辺り
那須さん宅前から
千原バイパス入り口へ
原地内

九日市地内
九日市地内は大半が川沿いで急な崖の上にあり、当時は人馬・積荷の落下など在り大変であっただろう
と推測される。
鈩谷古道
川側には「藪椿」「樫木』など粘り強い木があり、路肩の崩落・人馬の転落防止のため植栽されたものと思
われる。
吉迫さん宅前から 畑の側を通って 昔のままで・・・ 昔のままで・・・ 片山に渡る橋があります
県道の方へ 県道へ
西ノ原古道
掛谷を出た所から西福寺橋までの沢谷側沿いに殆ど昔の状態で残っている
佐和さん宅上から 田圃の下を通って 田圃の下を通って 昔が偲ばれます 好い感じです
本当に好い雰囲気です 西福寺橋です 銅が谷川を渡って・・
五反田古道

左側は沢谷川

田圃の中を通って・・・

君が淵の傍を
通って
・・・

橋を渡り登ると
九日市の町
九日市宿
九日市が宿場町となったのは大久保長安が大森〜尾道を陸路にと試験的に通行した1,603年頃。大森
を朝早く出発した人馬の一行が7里(28km)の行程を終え九日市宿に着くのは夕方だった。役人たちは
本陣の原田屋(佐和さん宅)、脇本陣の鍛冶屋(桜井さん宅)に投宿。輸送に疲れた牛馬は川向こうの井
元の馬場で疲れを癒し、馬の背のお銀は2箇所にある御銀倉に保管され、近在の農民たちが寝ずの番を
した。牛馬280頭人足400人余りの大行列(産銀が少なくなった文化年間でも)、街道周辺の村々には大
変な負担となり、農民を後々まで苦しめた。

五反田橋を渡って

九日市町下を通って

桜井さん(脇本陣)宅
横を通って

福間・青石さん宅
下を通って

畑の下を通り

槙谷川を渡って

口羽さん宅前の
竹やぶの中を・
・・

元竹井さん宅裏

清水の出ていたところ

和田さん宅
田んぼの下

新九日市橋の傍を通って首なしへ

井元へ・・・

井元橋橋台跡

この坂を登り

小路を通って

前馬場

上馬場

九日市本陣跡
佐和さん宅

佐和華谷生誕地の碑

脇本陣跡
桜井さん宅

御銀倉跡

御銀倉跡

九日市宿遠望
猪子田古道
旧森奥敏郎さん宅
後ろ辺り
岸本建夫さん宅
田圃下辺り
福間商店さん
車庫下辺り
森谷方向に向かい
右に曲がって森原へ
湧久利原〜森原

森谷川を渡って


斜面を登り

田んぼのへりを通って

田んぼのへりを通って

福間工務店さんの
下を通って
酒谷地内
殆どが現道上で市地区以外には連水・光地内に僅かに残っている。
細原古道

光古道

市古道
市地内には雲石境の口止め番所跡がある。徳川幕府直轄の銀山領への出入り口でもあり、を構え大
森代官所の役人が常駐し、銀・胴の流出は勿論のこと、銀精錬法の秘密漏洩の防止、労働者・技術者
の逃亡を防ぐなど重要な役割を持っていたようだ。
県道から分かれて・・・ 県道へ・・・ 再び県道から
分かれて・・・
戸沢さん裏辺り 田圃の間を通って
沢谷川を渡る
多久さん宅後ろ
(前かな?)辺り
昔のままです 景山さん宅前を通り
登りです
登りきると県道に戻る 右(真っ直ぐ)は赤名
左(谷筋)は来島
門が建っていた所 番所跡遠望 番所跡案内板と石碑

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せきしゅう さわのごう いわみぎんざんかいどう ここのかいちじゅく
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1600年、関が原の戦いの後、初代大森代官大久保長安により開拓されたルートで、大森から九日市・三次・甲山と宿泊し尾道へと向かう3泊4日の道。1610年代に確立され、明治直前まで続いた。大森を朝早く出発した牛馬280頭・人足400人余りの大行列は大森〜別府〜小原(4里・16km)で昼となり、小原河原にてお銀の付け替え・昼食。小原〜浜原〜九日市(3里・12km)、全行程7里(28km)の第一日目の泊りが九日市宿だった。明くる朝早く出発した行列が、酒谷口番所を通り赤名に着くのが午前8時頃、その後布野・三次・吉舎・甲山・御調・尾道と大森から尾道までの全行程は32.5里(130km.)に及んだ。



尾道道