佐和華谷
1749年〜1831年。九日市町下、原田屋に生まれる。佐波氏7代実連より19世の代で、7世佐波余三兵衛広門が帰農し九日市村に住居を構えた。通称原田屋荘太郎、名は閃、字は伯恵、号に華斉・五鹿洞・などがある(律士は尊称)。早くより京都に遊学し頼山陽らと交わり儒を修め、京都の中林竹洞に絵を学んだと言われる。勤皇諸家とも交流があったため、幕府方の怨むところとなり、高野山に逃れ仏門に入り、のちに大森銀山(石見銀山)の観世音寺に入ったとも言われるが、明らかでない。
1811年、当地に測量に入った伊能忠敬は、華谷の好学を聞いていたので、九日市本陣原田屋に華谷を訪ねたが、不在で会えなかった。「測量日記」に「此節他行好文字由」と記しており、会えなかった心残りが感じ取れる。
1794年、大森銀山の大安寺墓地に、初代奉行の大久保長保の紀功碑(この碑は現存している)が建立され、撰文は当時の代官菅谷弥五郎、碑文の文字は華谷の手になっており、書を良くしたことはこれで分かる。
著書も多数あり、「周易跋鼈」書経跋鼈」詩経跋鼈」「大学中庸」書学海洋」「薩人漂海記」「使酒語」「批四十六士論(忠臣蔵を論じたもの)」などが有る。
佐和九華
華谷の4男、大五郎(号を九華、大五郎もまた律師と呼ばれていた)もまた需を修め、詩文・書画を良くした。大五郎も勤皇方と交流があった為、浜田藩より捕り手が再三来たが、小太刀の名手だったので、捕らえることが出来なかったそうだ。また原田屋の納戸の天井には、畳が上がっていたそうで、天井裏を隠れ部屋にしていた様だ(現原田屋当主佐和正一さん談)。諸国を漫遊?!した後、晩年九日市村に帰住、明治3年私塾を開き「螟蛉館」と称した(九日市小学校の前身)。
 
          生家(旧九日市本陣原田屋)            生誕地の碑(ふるさと創生100万円事業にて建立)

  
    辞世の句の碑               墓碑                 墓碑背面

片山、片岡尊祐さん所有の華谷の書画等







五鹿洞の号あり

落款の数々
        
佐和呉峡
1813年
〜1855年。九日市町下、石田屋に生まれる。幼年より絵を好み独学し、1846年3月に京都に上り、中林竹洞の門に入り修行すること10年、その作は師中林竹洞に伯仲せるものありと、京洛中に名声の上がらんとする時、病に伏し、43歳にて京都で没する。

             生家跡                         墓碑

九日市町下、佐和利雄さん所有の呉峡の絵

片山、片岡尊祐さん所有の呉峡の絵
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参考文献:邑智町誌

先覚者〜文化人