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「酒谷」の語源の話
邑智郡誌(昭和12年12月発行)より
文徳天皇仁寿4年7月禮泉湧出する事3日間、時の大領僧淡海磨なるものこれを朝廷に献上し御嘉納有り、詔して齋衛と改元せられ更に諸陵に告祭し給う。実に1千八十余年前(昭和12年12月現在)のことである。

地元の人より聞き取り
その昔、現在の酒谷洞門向かい側の谷に酒の出る谷があったが、欲深い隣の谷の持ち主がその酒を自分の谷に引こうとしたため出なくなったそうだ。
光石伝説
酒谷光(ひか)地区の山下学さん宅の蔵前にある岩にまつわる伝説です。

邑智郡誌より
往昔、光輝き赫赫として照り渡り数町に及び暗夜と誰も燈を用いなかったと言う。爾来風雨幾百年次第に光芒を失い衰退して、いまや普通の一岩盤として残骸を伝えるのみ。

地元の人より聞き取り
昔、光石と言って朝から晩まで夜通し光っていた岩があったそうだ。その岩のお陰で、喜んでいたのは庄屋の旦那だった。小作のお百姓の人たちを、朝から夜遅くまでこき使って財を成すばかりだった。一方で小作のお百姓の人たちは、もお疲れが溜まりどうしようもないほどになっていた。そこである日、小作の中で屈強な者が大きな巻き割りでその石を割ったそうだ。その後、石の光は徐々に薄れていき、現在は普通の岩となっており、巻き割りで割られて出来た割れ目には、何かしら木が生えている。
 
君が淵哀話
その昔、九日市の井元に城(住まいと一緒になった砦・出城?)があった頃の話です。

お城の若君を子守していた村娘は、若君を背負って淵の上にある橋を渡っていた。。余りにも若君がむずかるので、背中から若君を降ろし抱こうとした。ところが誤って手を滑らせ、若君は橋から落ち滝壷に沈んでしまい、そのまま姿が分からなく成り二度と浮かび上がってこなかった。なついていた若君を哀れみ又、お城の跡取りを死なせた責任を感じ村娘は、その淵の下流の貝の平にある深い淵に身を投じたのだった。以来、若君の沈んだ淵を『君が淵』、村娘(子守の娘を「ねね」と言った)が身を投じた淵を『ねねが淵』と呼ぶようになった。

石楠花音頭(片山西福寺前住職片岡尊月さん作詞)にも♪君が淵底深さは知れず、続くねね淵水輪も揺れて、流れ流れて昔も今も、貝の平には藤の花♪と唄われている。
猿丸太夫
『奥山の紅葉かきわけ鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲し』で有名な猿丸太夫(平安初期の歌人で36歌仙として有名)伝説は、日本全国各地にあり、福島県会津地方熊本地方等にも伝わって居り、神社なども建立されている。

邑智郡志より
猿丸太夫は至って猟が好きであったが、其の女あき女なるもの殺傷を忌み、意見すれども聞かなかった。そこであき女は鹿皮を被り、竹薮を歩いていると、猿丸太夫はそれを自分の娘と走らず射止めた。見れば娘なるに驚き、それより猟をやめ、放浪のたびに上り2年目に娘の墓に参りしと言う。其の後の様子は不明。現在(昭和12年12月現在)娘の墓は自然石の儘、縦三尺、目方五拾貫位のものが現存している。
詳しくは美郷町ホームページ『なんぞかんぞ知恵袋〜民話』をご覧下さい。

町道千原八神線
田辺マスヨさん宅上より

畑の側を通って



昔は桑園でした

桑園の石垣の間を

この向こうに竹薮が・・・

藤原さん宅墓地の上に

ひっそりと・・・・



案内して頂いた
藤原肇さん
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民話・伝説

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